東京地方裁判所 昭和46年(刑わ)6132号 判決
〔主文〕被告人を禁錮一年六月に処する。
この裁判確定の日から四年間右刑の執行を猶予する。
〔理由〕(罪となるべき事実)
被告人は、自動車運転の業務に従事していた者であるが、昭和四六年五月八日午後五時一〇分ころ、大型貨物自動車を運転し、東京都板橋区上板橋二丁目一番地先道路を成増方面から池袋方面に向かい時速約四五キロメートルで進行し、同番地の信号機により交通整理の行なわれている交差点手前に差しかかり、信号に従い同交差点直前に停止するにあたり、当時降雨のため路面がぬれ車輪が滑走しやすい状態であつたから、右状態に応じてあらかじめ速度を調節するとともに、同交差点の直前で確実に停止できるようハンドル、ブレーキ等を的確に操作して急激な制動措置を避けるべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り、同交差点の約三五メートル手前で対面信号機が黄色信号を表示しているのを認めながら、時速約三〇ないし四〇キロメートルに減速しただけで同交差点に接近した過失により、折から自車の右側車線前方を進行中の武藤潤運転の自動車が、自車の車線の方へ進路を変更してくるや、右交差点直前の手前約一二メートルの地点で左へ転把しながら急制動せざるをえなくなり、自車を左前方に滑走させ、その結果、同交差点入口の横断歩道左端付近に佇立していた吉田チヨ(当時五四年)および小川和子(当時三〇年)の両名に自車を衝突させてこれを路上に転倒させ、よつて右吉田を、同日午後九時三〇分ころ、同区上板橋一丁目二二番地花岡病院において、頭蓋内損傷により死亡するに至らしめるとともに、右小川に加療約四か月間を要する脳内出血等の傷害を負わせたものである。
(証拠の標目) 略
(量刑の事情)
本件は、被告人のハンドル・ブレーキ操作の誤りから、横断歩道付近に佇立していた歩行者一名を死亡させ、一名に判示重傷を負わせたきわめて重大な事案であつて、もとより被告人の刑責の軽かろうはずはなく、被告人がこれまで道路交通法違反で一〇回、業務上過失傷害で一回各罰金刑に処られた前科を有すること等をも併せ考えると、この際被告人を禁錮一年六月の実刑に処すべきであるとする検察官の意見も、あながち理由のないところではない。とくに、被告人が交差点の対面信号が黄色に変つた時点において、当時の天候、路面状態等を考慮に容れて、冷静沈着に慎重なブレーキ操作をとつてさえいれば、本件のように、さしてとがめるべき落度の認められない歩行者二名に死傷の結果を生ずるいたましい事故を未然に回避できたと思われるのであるから、雨天のため路面が湿潤しているにも拘らず、前記のような慎重を欠いた方法で運転を継続した被告人の態度は、かえすがえすも残念なことといわなければならない。
しかしながら、本件における被告人の刑責を決するについては、なお、つぎのような事情を考慮に容れる必要があると認められる。すなわち、
1、まず、本件における被告人の過失の態様は、端的に言えばブレーキの一瞬の踏みおくれに基因するものであつて、酒酔い運転、無免許運転等明らかに法規を無視した無謀運転に基づくものではない。関係証拠によると、被告人は、交差点の黄色信号を、交差点直前の横断歩道の手前約三〇メートルの地点(司法警察員作成の実況見分調書添付図面①の地点)で認め、ただちに、同②の地点でいつたんブレーキを踏んだが、若干車輪がスリップしたので、そのまま約9.1メートル進行し、その直後、同④の地点で左へ転把しつつ急制動の措置をとつたことが認められる。被告人が右④の地点で、左へ転把したのは、判示のとおり、武藤潤運転の車両が自車の進路の方へ進路を変更してきたので、これとの接触を回避しようとの意図によるものと認められ、ある程度やむをえない措置と考えられるのであるから、本件において非難の対象とされるべき行為の実質は、結局、主として被告人が、前記②の地点から同④の地点に至るまでの間における減速の程度が足りなかつた点に求められるべきであろう。(ちなみに、被告人は、当公判廷において、急制動をかけた段階で、自車の速度は、時速二、三〇キロメートル程度に減速されていた旨供述する。しかし、前掲実況見分調書によれば、被告人車のスリップ痕の長さは、右約15.1メートル、左約13.5メートルであり、これから被告人車の軸距の長さに相当するもの(ほぼ六メートル前後と思われる。)を差し引いた距離から、右急制動当時の被告人車の車速を推定すると、路面の摩擦係数いかんにもよるが、ほぼ時速三〇ないし四〇キロメートル程度ではなかつたかと考えられる。)被告人が前記②の地点において、いま少し沈着冷静なブレーキ操作を行なつていれば、右④の地点に至るまでに、より大巾な減速を行なうことは不可能ではなかつたと考えられるから、右の点において被告人の過失はもとより免れないけれども、被告人は、右④の地点でとにもかくにもいつたん制動の措置をとつたと認められるのであり、ただ、その際自車が若干スリップしたので、その後の制動措置に適切を欠くことになつたと思われるのである。右②の地点から同④の地点までは、9.1メートルであつて、時速四〇キロメートルの自動車では、わずか一秒足らずの時間で通過してしまう距離なのであるから、右のような短時間内における一瞬の運転操作上の誤りを強く責めるのは、運転者に対し、いささか酷な結果になりはしないであろうか。
2、右にも一言したとおり、被告人が交差点直前において、左へ転把したのは、自車の右前方を進行していた武藤車が自車の車線へ進路を変更してきたことによるのである。もとより、右武藤車が、あえて進路を変更したについては、それなりの理由のあつたことであり、これをもつて同人の過失とまでいうことはできないが、それにしても、右はいちおう被告人にとつても予想外の出来事であり、もし右のような偶然が介在しなければ、被告人が左へ転把して自車を左前方へ滑走させることもなかつたであろうと考えられるのであるから、右の点は、被告人にとつても不運なことであつたということができる(もつとも、被告人が、右武藤車のさらに前方を進行する車両の動静について十分な注視を怠らなかつたとすれば、右のような武藤車の行動を事前に予測することも可能であつたと思われるが、当時の天候状況、交通状況等を前提とすれば、被告人が右武藤車の先行車の動静を十分把握していなかつたからといつてこれを強く非難することはいささか酷に失しよう。)
3、さらに、被害者両名が、歩道でも横断歩道でもない、車道上に佇立していた点も、本件事故の一因となつている。もとより、その場所は、横断歩道からごく近くのところであり、これをもつて、同人らに落度があるとまでいうことはできないけれども、もしも同人らが他の多数の横断者とともに、正規の歩道上に佇立していたのであれば、本件の事故の犠牲になることなくすんだであろうと思われるのであるから、右の点も、被告人のため酌むべき事情であるといえないこともないであろう。
4、本件については、被害者またはその遺族との間で示談が成立し、相当額の金員の支払もなされている。その金額は、とくに責められるべき落度のない歩行者一名を死亡させ、一名に重傷を負わせたにしては、必ずしも満足できるものとは言い難いけれども、被告人が、いち早く自己の非を認め、積極的に被害者らの慰藉につとめたその誠意のあらわれとして、一応の評価のできるものである。被害者の遺族も、現在では、被告人を宥恕し、その寛刑を望んでいる。
5、他方、被告人は、若くして家業の運送業を営み、母親と妻子四名を拘えており、文字通り一家の支柱である。被告人には前記のとおり、多数の交通事件の前科があるけれども、その大部分は昭和四二年以前のものであり、その長い運転歴からすれば、従前の運転態度に顕著な問題点があつたとは認められない。
以上に述べた諸点を中心とし、関係証拠により認められる一切の事情を総合して考察すると、本件は、その結果がきわめて重大であり、過失の態様にも看過し難い問題を含むけれども、この点につき、被告人の刑責を強くとがめるのはいささか酷に失し、むしろ、今回に限り、その刑の執行を猶予するのが相当であると認め、主文の刑を量定した次第である。 (木谷明)